おっ、久しぶりの投稿。
哲学は必修で選択権はなし。”いつか向き合わなければならない科目”ということで、この夏学期で3週間集中講座を受けてます。哲学は高校でも大学でも一度も勉強した事はないし、かなり抵抗が。毎日現実対処に追われていると、正直なところ”人間の幸せを追求するため”という哲学は単に”理論をコネクリ回してるだけ”と感じてしまう。しかも答えは出ないし、出さなくてもいいのだ!兎に角優雅な勉強なんだけど。
この歳になって哲学を勉強するということに意味があったように思え、理想を新鮮に考えられる時間となりました。とはいえ、クラスで取り上げた内容はどれもディープなものばかり。延命措置とか、助からない病気にかかって苦しみ続ける娘を父親が見かねて殺害してしまったケースなど簡単には答えを出せない問題ばかり。一昨日は「デッドマンウォーキング」を見て死刑制度についてクラスディカッションといった具合です。そんな風にして3週間があっという間に過ぎまして、後は週末エッセイ2つを月曜までに書けば終わる予定。(終わるのか!?)
今回はその教科書にあったリストから、哲学者であるレイチェル氏が書いた”美徳に必要な要素”を書き出してみました。
benevolence: 博愛心
civility:礼節
compassion:思いやり
conscientiousness:誠実性
cooperativeness:協調性
courage:勇気
dependability:信頼性
fairness:公平
friendliness:友好的
generosity:寛大
honesty:正直
industriousness:勤勉
justice:正義
loyalty:忠誠
moderation:節度
patience:忍耐
prudence:思慮深さ/慎重さ
reasonableness:合理的/道理
self-reliance:自立
self-discipline:自制力
tactfulness:如才無い
thoughtfulness:心遣い
tolerance:許容
どう思いました?
個人的には”思慮深い/慎重さ”というカテゴリーでそうでありたい、と思いました。
アメリカにいるとTVなり友達の会話なりで”Don't judge me.” という言葉を耳にします。真剣なトーンでも、ジョークでも使いますが、私という人間を貴方の価値観で決めつけるな、というニュアンスから、”批判しないで”という感じで使われます。日本は単一民族なことから、文化は比較的同質と考えられますが、そうするとどうしても他人を自分の物差しで判断しがち。違うことが前提のアメリカの大人社会では、余程その人が常軌を逸してない限り、互いに干渉はしない気がします。小学校や中学校でそういった干渉で相手を傷つけたり、傷つけられたりした経験って誰でもあると思いますが、違いがあって当然なことに大人が子供に気づかせてあげるべきかな、と思います。通信機器の発達で、他人との距離が図りずらい時代ですが、いくら相手を思っての事でも、干渉する方はきちんと心が通い合っているか確かめてからでないと単に相手を傷つけるばかり。折角の勇気も逆恨みの原因にもなりかねません。
反対に、アメリカは仕事に対するクレームを言いやすい。というのも、その人を責めてるのではなく、間違いに対し批判する、という考え方が大きいから。どちらも後はさっぱりしてる気がします。
最後に、Don't judge meと同様に、"Don't be judgmental."というのも良く聞きます。
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